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【感想_0024】『易と人生哲学』/ 安岡正篤

本のタイトル:易と人生哲学

 
 
 
 

著者の紹介:

安岡正篤
日本の易学者、哲学者、思想家。明治31年大阪市生まれ。大正11年東京帝国大学法学部政治学科卒業。
 
 
昭和20年8月15日、昭和天皇によるいわゆる「玉音放送」で発せられた「終戦の詔勅」の草案作成にもかかわり、また「平成」の元号の考案者でもある、日本の歴史を作った大碩学。
 
 
戦後24年、師友会を設立。政財界のリーダーの啓発・教化に努め、その精神的支柱となる。
 
 
中でも、昭和の名宰相とされる佐藤栄作首相から、中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた。その教えは人物学を中心として、今日なお日本の進むべき方向を示している。
 
 
 
 

Takeaways:

1. 「易」の成り立ち

易とは、人間世界の偉大な統計的研究。はっきり分かっているのは、周代から発達し、漢の時代に一応まとまったと言われている。また一説には殷の時代に作られたともいわれているが、殷時代は文献がないため明確ではない。
 
 
中国時代の民族が周の時代に黄河の流域に落ち着き、農耕生活を始めるようになって、色々な学問が進歩し、文明が発達してきた。
 
 
黄河の流域に定着して、農耕生活に従事すると、その生産労働は自然の変化に制約を受けるため、どうしても春夏秋冬の変化、これに適応する手段、方法というものを研究しなければならない。そこで過去にさかのぼって統計を取るというようなことが始まり、長い長い生活体験に基づく研究調査によって統計学的結論を導いた。
 
 
また、これに則って政府は年初に、本年はこのようになるだろうと、天地の変化、及びこれに伴う生産活動などを割り出して予告する、参考にするということが定着するようになる。
 
 

2. 「易」の意味

1.で述べた成り立ちのように、自然も人生も絶えず変化してやまないものである。その絶え間ない変化の中の統計学的研究として「易」が生まれた。易という漢字そのものに3つの意味がある。
 
 
変易(へんえき):変わるという事
森羅万象あらゆる事象は変化する。変化しない事象は何一つない。
 
 
不易(ふえき):変わらないという事
事象は無秩序には変化しない。原理原則に基づいて変化する。必ず不変の法則性がある。
 
 
易簡(いかん):変易、不易を理解し、人間が意識的、自主的、積極的に変化していく事(=化成)
あらゆる事象が変化すること「変易」を認識し、その変化は「不易」の法則によると理解し、自分を能動的に変化させる。
 
 
変わるという事があったから、変わらないという概念を意識できるようになり、反対も同様に、変わらないという概念があったから、変わるという概念を意識することが出来る。
 
 
それらの変わるもの、変わらないものを理解し、自分を変化させていくことを易簡(=化成)という。
 
 

3. 「易」とは立命の学問である

立命とは…?
その前に言葉の定義を整理。まず初めに、「命」とは「いのち」である。そして「いのち」とは天地創造のもとに生まれては消え、時間と共に年を取っていく、つまり動いてやまない創造進化をしていくものである。
 
 

(※図は本の理解を基に自分で作成。間違っているかもしれないが、自分の理解だと上の図のような構造だと理解した)

  • 運命:「運」には「動く」とか「巡る」という意味がある。また「命」とは上記の定義の通り、天地創造のもとで動き続けるもの。その「命」を「巡り動かす」すものが「運命」。変わり続け、巡り続ける無限の命の循環のイメージ。
    そしてその支配の中で「命」を持って動くものを「生命」という。また生命には鉱物→植物→動物になるにしたがって、意識というものが生じる。その意識が発達したものが心。そして心の生まれた生物は、「生」に「心=忄りっしんべん」が付くことで「性命」という。
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  • 天命:天地創造の基に、天から与えられる命(いのち)、素質、能力のこと。
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  • 宿命:「宿」には「やどる」、「とまる」という意味がある。命が肉体に宿ることにより、生まれ持って決まる、自分の力ではどうしようもないようなこと。(例:男として生まれる、日本人として生まれる等)
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  • 知命:天から与えられた命、素質、能力に気付く・理解すること。
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  • 義命:「生命」の中でも心のある「性命」のうち、高等になればなるほど心が発達し、「如何に生くべき」という「義」の概念が生まれる。この「如何に生くべき」という義の概念を持つこと。(wiki:義(ぎ)は、人間の行動・思想・道徳で、「よい」「ただしい」とされる概念)
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  • 立命:運命の循環の中で、天命を授かり、宿命を知り、知命に気付き、義命を立てて、化成すること。

 
多くの人々は、運命という言葉の定義を深く理解せず、運命を宿命的に考えている。しかし、それは間違いであり、運命は立命、つまり新たに創造することであるから、宿命の学問ではなく、立命の学問である。
 
 
「易」は文字通り「変わる」学問である。つまり、「易」とは、宿命論に陥らずに、自らの行動によって進化創造をすることを、つまり立命をすることを学ぶ学問といえる。
 
 

4. 「易」とは深遠な学問

元来「易」とは、変易、不易、易簡を体認し、それに基づき化成する、変化し続けるという非常に深遠な学問であるが、民間に普及するにつれて、通俗的で浅解誤解な応用がされてきた。
 
 
例えば「四柱推命」は民間の易に基づく人間学で、年、月、日、時間の四つを四柱といい、そこから統計学的な見解を示すというものである。易学を基としているため、いわゆる当たりはするものの、ただ表面的にその結果を見て一喜一憂するような使われ方をしている。
 
 
また干支も易を基にした概念であるが、「丙午の年に生まれた女は男を殺す」と言った迷信もある。事実これは民間に易が広まり、浅はかな理解で通俗的に利用されたものである。その他にも、「大安の日に結婚式を挙げる」というような、間違った理解もある。大安とは本来「大いに安んぜよ」つまりこの日は安らかにして、静かにしているのが良いという意味であって、安泰を要する日、何をしても大丈夫という意味ではない。
 
 
このように民間に広まった通俗的で浅解誤解な易を「民間易」という。
 
 
「易」とは、あくまでも立命、自分で自分の運命を創造していくという事が本筋であり、真の易学は、「宿命」の学ではなく、「立命」の学である。これは「易」を学ぶものの最初によく知っておかなければならない大事な点であり、これを忘れると易は卑俗になる。
 
 

5. 陰陽相対(待)性理論(その1)

易の基本原理として、「すべての者は相対する二つの要素(陰陽)で成立している」という根本的な価値観がある。
 
 
易の文字の意味にもあるように、「変易」「不易」ももちろんこの陰陽相対性理論が当てはまる。つまり森羅万象すべての物事は、陰陽相対性理論で成立している。
 
 
また「相対」という言葉は、相対するとともに相待つ、単に「対立」という事だけではなく「相関」して存ずるということ。
 
 
この陰陽相対(待)性理論は、草木を例にとるとよく理解できる。木は、根→幹→枝→葉→花とだんだんに分かれ分かれて繁茂していく。これが「発動分化の力」である。これが逆になると、花→葉→枝→幹→根と統一し含蓄される。これが「統一含蓄の力」である。
 
 
つまり、この発動分化の力と統一含蓄の2つは相対しており相待つ関係となる。これが陰陽相対性理論である。
 
 
また、陰陽の「陰」と「陽」は、単にネガティブ・ポジティブや明るい・暗いといった表面的な意味はない。陰陽は、もともと天候に関する言葉であり「陽」は日向、「陰」は日陰を意味し、それから発展して「陽」は外に向かう動的な性質を持ち、反対に「陰」は内に向かう静的・凝集的な性質を持つ。「陽」が良くて「陰」が悪いという意味はない。人間では男性が「陽」、女性が「陰」にあたる。
 
 

 
 
※これはただの個人的な気づきだが、「円満」とは陰陽相対し相待つものが不足なく満ちている状態が「円」だから、円満は「欠けることなく、まるく満ちていること」や「おだやかな様子」といった意味があるのではないかと思った。違うかもしれないけど腹落ちはする。
 
 

6. 陰陽相対(待)性理論(その2)

先ほどの草木の例を見ると、「陽」つまり「発動分化の力」によって根から花へと生成化育が行われて、万物も同じように大きく育つ。しかし分化発展していくだけでは、分かれ分かれていき、どんどん分からなくなる。
 
 
この「分からぬ」という言葉は面白い言葉で、創造し分派する、あまりに茂りすぎると生命力は弱くなり、創造力が無くなる、つまり「分からなくなる」。そこで、一度これを結ばなければならない。枝から幹に、幹から根にという具合に結ぶ必要がある。それは「陰」つまり「統一含蓄の力」が必要になるということ。(※ちなみに木は葉が繁りすぎると、すべての葉に光が当たらなくなりそのうち枯れ始める。果物の場合、果実が実りすぎると木全体として実の大きさや糖度が下がる。そのためあえて実を間引き、果実を健康的に育てる。勇気を出して間引く実を決めることを「果決」といい、実際に間引く行為を「果断」という。)
 
 
「陰」は籠る、結ぶという意味があり、「陽」は表立つ、分かれるという意味がある。従って、繁栄して、あまり分かり分かれて枝葉を繁らせすぎると、やがてこれは生命の真理から離れる。つまり「分かれることで別れる」。それは生命成長の働きが止まることである。
 
 
私たちの体も同様に、飲食があまりに暴飲暴食になると(陽性)、真理から離れて病気になるし、欲望が強すぎると、破滅し身を滅ぼす。欲望は言うまでもなく「陽」であり、それに対する内省、反省と言うものは「陰」である。欲望がなければ活動がないわけだから欲望は盛んでなければいけない。しかし盛んであればあるほど内省と言う「陰」の働きが強く要求される。内省のない欲望は邪欲である。
 
 

7. 人格の形成

人間の成長自体は「陽」つまり発動分化の力だが、成長の原動力、結びの力は「陰」である。
 
 
人格では、「陽」のことを「才幹」、「知能」といい、「陰」のことを「徳」という。(※才幹とは才能の事)
 
 
才能とか知能は前に出るが、徳や品位は前に出ない。(まさに「5. 陰陽相対(待)性理論(その1)」で述べた陰陽の特徴の通り)
 
 
この「才幹知能」と「徳」とが相まって、人格というものが形成される。徳や品位のない才幹知能は、浅くみずほらしい。反対にいくら人柄がいい、つまり徳や品位があっても、前に出る力を磨かないものは、閉ざされた自分だけの中に引きこもる。素晴らしいのは「才徳兼備」である。(URL)
 
 

8. 内省

内省という「陰」の働きは、「省」の字があらわすように「省(かえり)みる」という意味と「省(はぶ)く」という意味がある。内省すれば余計なものを省き、陽の整理を行い陰の結ぶ力を充実させる。人間の存在や活動は「省」の一字に帰すともいわれる所以である。
 
 
人間が団体生活、群衆生活をするようになって、高度に発達した社会が国家であるが、人民というものは多くの欲望を持っているので、これを放任しておくと収拾がつかなくなる。そこでどうしてもこれを「省みて」、くだらぬことを「省く」必要がある。これにあたるのが役人であり、指導者である。会社でいうと、経営者にあたる。
 
 
そこで、国を代表する政府諸官庁に「省」という字をつけた訳である。中国の歴史には、明確にそれが記録されている。財務省、外務省、文部省など。、役人がよく省み、省いていけば、国民生活は非常に健全となる。これに反して、余計な官庁をたくさん作り、多くの役人を抱え、くだらぬ雑務によって事務を煩雑にすると、「省」の反対の「冗」となる。
 
 
役所というところは、「省」の字の通り、常に省みて、省かなければならない。これは役人の真理・哲学・道徳の第一条と申してよろしい。
 
 

9. 中

人間を含むこの世界というものは、進化発展して止まないのと同時に、統合統一され限りなく変化していく。発動分化の力と統一含蓄の力が常に相対(待)している。そしてそこに「中」という概念がある。
 
 
「中」とは、対立するものの真ん中を取るというような単純な意味ではなく、もちろんそれも1つの中に相違ないが、本当はもっと動的ないわゆるダイナミックな意味を持っている。
 
 
「折中」という言葉があるが、「折」の字には「折る」という意味と「定める」という意味がある。折中の二文字は、矛盾・相対・闘争する双方を処理し、「統合統一」して、限りなく「進歩向上」させるというのが本当の意味である。
 
 
つまり陰陽の真ん中という静的な概念ではなく、相対(待)するものを「統一含蓄し発動分化させる」という、非常に動的、ダイナミックで、深い思想概念である。
 
 

(※画像は中の理解を自分でイメージ化したもの。陰と陽の双方の矛盾を「統一含蓄」と「発動分化」しながら処理する。最後は点に行きつくイメージ。間違ってるかもしれないけどなんとなくのイメージ)
 
 
かつで中国の学者が日本に来て、可愛い少年たちが「中学に行っている」と言っていたので、「日本は大した国だ。あんなに小さな子供に中の道を教え学ばせている」と感心したという話があるが、小学校、中学校、高校、大学の「中学校」の事であると知らなかったからであり、笑えない笑い話がある。
 
 
また明治時代の話だが、ある中国の学者が男女の情死を「心中」と書いてあるのを見て、「日本人は実に優れた儒教を体得しておる。この世で添われぬ恋中の男女が死んで、あの世で一緒になると信じて共に死ぬことを「心中」という。良い言葉だ。」と非常に感心したと言う。「情死」などと言うと消極的だが、「心中」と書いてあれば、学問的にも非常に意義のある言葉になり面白い。(※情死:合意の上で死ぬこと)
 
 

10. 理知

理知とは、物を分類すること、つまり「分かる」ということであり、これは「陽」にあたる。
 
 
子供が少し大きくなると目、耳、鼻、口というふうに、顔全体を分ける。それから次第に抽象論、抽象的理法というものを覚える。だから、理知によってものがわかりはっきりする。その代わりものわかりというものは、あまり理知的、理論的になると分かれ分かれてわからなくなる。
 
 
ペンシルバニアのインテリの一紳士の例(P69)
我が父は我が子にして、我が娘は我が母なり、我が妻は我が祖母にして、我がは我が孫なりということで、わからなくなって自殺した。AはB、 BはCという様に抽象的に分ければそうなるものの、現実はそうではない。(※ペンシルバニアの例では、抽象的には我が父は我が子であるが、現実ではわが父は我が子ではない)
 
 
理知には知りすぎるとわからなくなる。これは易学ではなく、不易学となる。
 
 
易学というものは、こういう概念や論理の束縛から解放しなければならない。またそれには易は大いに役に立つ。現在の思想、学問の一部には頑固な不易、つまり固定、凝滞した概念と議論の困った傾向がある。そういう意味でも、この易学というものは大いに活用しなければならないと思う。(※凝滞: 変化、進行、進歩などがなく、とどこおること。)
 
 

11. 易学の要約

易の最も大事なものは、陰陽相対(待)性理論、すなわち宇宙、人生を通ずる創造。
 
 
つまり、宇宙、人生の本質、その根本原理のひとつは、陰陽相対(待)性の理法、原理原則である。またこれによって無限に存在を進行させていく。これを「中」という。そこで「中」とは、非常に行動的・創造的であり、相対しつ相待って、無限に矛盾を統一し進歩向上していく動き、これが本当の「中」である。その相対(待)性原理、原則というものが陰陽であり、そしてその無限の進行が易である。
 
 
陰陽相対立すると同時に相待って中とし、無限に統一含蓄・発動分化を行うことが易である。
 
 
易を学ぶことで、運命という循環の中で、天命を授かり、宿命を知り、知命に気付き、義命を立てて、化成することができる。これを立命という。そのため、易は立命の学問なのである。
 
 
易学を学び、万事陰原理、陽原理の特徴を基に人生に活かすことが出来れば、物事の判断を誤ることはない。
 
 
何事にも同じ理であるが、学問をするにも初めあるいは基礎が肝腎である。これを疎かにすると、いけばいくほど分からなくなり、混乱し、いやになる。いやになるならまだしも、誤る。学問には正しい学問「正学」と「曲学阿世(きょくがくあせい)」という曲がった学問がある。これは根本を間違えたはじめを疎かにすると起こるものであり、くどいほど初め、言い換えると根本をしっかりと立てる、確立することが大事。
 
 
この易学も同様。先へ行けば行くほど分からなくなるが、常にもとに返り、初めを明らかにしていくと、先へ進めば進むほど興味が深く、また活用が効くようになる。易を学べば学ぶほど、自分で自分の存在、自分の活動、そして自分の運命を拓いていくことが出来るようになる。
 
 
ところが世間の人々は、自分に定められている宿命を発見する、教えてもらうことが易学だという様に、全く正反対に考えている。そのため算木筮竹に頼る。易といえば占うものだと考えているのは、それはまだ易を理解していないからであり、本当に易学を理解すれば占うという事は要らなくなる。
 
 
本当の易学の達人は占わずという。なぜなら占う必要がない、考えたらわかる。真の易学というものが分かれば、自分の頭で判断が出来る。自分で判断して自分で決定が出来る。易を正しく解する「易学精義」という事が非常に大事で、易を正しく学ぶと、世間のいろんな思想や理論、あるいは哲学などの到底企て及ぶことのできない人生に、実践的な思想、信念、それから決意、行動といったようなものの力になり、これほど有益なものはない。また正しい易学をやると、正しい義命がわ分かり、それに従って日進月歩の立命をしていくことができ、運命というものを正しく発達させていくことができる。(※企て及ぶ:計画してそこまで到達する)
 
 
そういう意味において、1番大切と思われる「易」の骨子と常識、すなわち基本知識を説明してきた。
 
 

12. 易の専門用語

六十四卦
 
 
 
 

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